「代わりは、いくらでもいるから」
20代のころ、客先でそう言われました。
正直に告白します。あの一言が、その後何年も、ずっと消えませんでした。
言った本人は、たぶん覚えていないと思います。軽い調子の、何気ない一言でした。悪意すらなかったかもしれない。
でも、言われた側は覚えているものです。19年経った今でも、その場の空気まで思い出せます。
今回は、そのときのことと、そこからどう折り合いをつけたのかを書きます。
同じことを言われて、今しんどい思いをしている人がいるなら、少しだけ届けばいいなと思っています。
その一言を言われたときのこと
当時、私はSESで客先に常駐していました。20代の半ばだったと思います。
その日は、作業の進め方をめぐって、先方の担当者と意見が食い違っていました。私は「この手順だとリスクがある」と主張していた。今思えば、言い方は拙かったかもしれません。
議論が平行線になったとき、相手がふっと表情を変えて、こう言いました。
「まあ、代わりはいくらでもいるから」
議論は、そこで終わりました。
反論しようがなかったんです。
技術的な話なら、根拠を出して議論できます。でもあの一言は、技術の話ではありませんでした。「お前の意見に価値はない」ではなく、「お前という存在に価値はない」と言われたのと同じでした。
そのあと何を話したか、覚えていません。ただ、帰りの電車で、ずっとその言葉が頭の中で回っていたことだけは覚えています。
何が一番きつかったのか
あとから振り返ると、きつかった理由は3つありました。
1. 反論できる材料が、自分になかった
一番きつかったのは、悔しいと思いながら、心のどこかで「その通りかもしれない」と思ってしまったことです。
当時の私は、特別なスキルを持っていませんでした。手順書通りに作業をこなす日々。確かに、代わりはいくらでもいたと思います。
言われて悔しいのは、図星だと感じたときなんです。
2. 会社が守ってくれる感覚がなかった
常駐という立場では、自社の人が現場にいるわけではありません。
何かあっても、その場には自分しかいない。この孤独感は、常駐を経験した人ならわかると思います。
3. 誰にも言えなかった
上長に報告するほどの「事件」ではない。同僚に愚痴るには、情けなさすぎる。
だから、飲み込むしかありませんでした。飲み込んだものは、消えずに残ります。
「代わりはいる」は、事実ではある
ここから、少しずつ考えが変わっていった話をします。
何年か経って、あるとき気づきました。
「代わりはいくらでもいる」は、実は事実なんです。
これは残酷な話ではなく、当たり前の話です。組織は、特定の個人がいなくなっても回るように作られている。そうでなければ、その組織のほうが問題です。
私は今、20名のチームを預かる立場になりました。そして、属人化を崩す側にいます。「この人がいないと回らない」状態は、リスクでしかないと考えています。
つまり私は、かつて自分を傷つけた言葉と同じことを、仕組みとして作っているわけです。
矛盾しているようですが、そうではないと思っています。
「替えが利く」と「価値がない」は、まったく別の話
気づいたのは、あの一言が2つのことを混ぜていた、ということです。
替えが利くかどうかと、価値があるかどうか。
この2つは、まったく別の話です。
替えが利くのは、仕組みとして健全なことです。チームは、誰が抜けても回るべきです。
でも、「替えが利く」ことは「価値がない」ことを意味しません。
たとえば、あるメンバーが休んでも、別のメンバーが対応できる。それは仕組みとして正しい。でも、そのメンバーが日々やっていることに価値がないわけがない。
代わりがいることと、その人の仕事に意味があることは、両立します。
あのとき言われた一言は、この2つを意図的にか無自覚にか、すり替えたものでした。だから、あんなに刺さったんだと思います。
今、あの言葉にどう答えるか
もし今、同じことを言われたら。
たぶん私は、こう思うだけで終わると思います。
「そうですね。それが健全です」
強がりではありません。本当にそう思えるようになりました。
理由は2つあります。
1. 替えが利かない状態を、自分から手放したから
かつての私は、「自分にしかできない仕事」を持つことが安心につながると思っていました。でも今は、意識的にそれを崩す側にいます。
自分から手放したものについて、他人に指摘されても、痛くありません。
2. 自分の価値を、他人の評価に預けなくなったから
20代のころは、自分の価値を測る物差しを持っていませんでした。だから、他人の一言に揺さぶられた。
今は、自分なりの物差しがあります。
- チームが自分の手を離れても回っているか
- 一緒に働いた人が、成長しているか
- 顧客の環境が、去年より安定しているか
これらは、誰かに「代わりはいる」と言われても、変わらない事実です。
今、同じことを言われて悔しい人へ
もし今、同じ言葉を言われてしんどい思いをしている人がいるなら、伝えたいことが3つあります。
1. その悔しさは、正当なものです
飲み込まなくていい。「気にしすぎ」でもない。人としての扱いを軽んじられたら、悔しいのは当たり前です。
2. でも、その悔しさは使えます
私の場合、あの一言があったから、「替えが利かない何かを持ちたい」と思うようになりました。
クラウドを学んだのも、自動化に取り組んだのも、根っこをたどればあそこに行き着きます。
悔しさは、燃料になります。すぐには無理でも、いつか使えます。
3. 言った人のところに、居続ける必要はありません
これが一番言いたいことかもしれません。
人を軽んじる言葉を平気で使う人や環境は、変わりません。あなたが我慢して合わせる必要は、まったくないです。
現場を変える、会社を変える。選択肢は思っているより多いです。
まとめ
「代わりはいくらでもいる」と言われた話を、まとめます。
当時、きつかったこと
- 反論できる材料が、自分になかった
- 会社が守ってくれる感覚がなかった
- 誰にも言えなかった
19年経って、たどり着いた考え
- 「代わりはいる」は、組織として健全な事実
- でも「替えが利く」と「価値がない」は、まったく別の話
- 自分の価値を測る物差しを、自分で持てるようになった
同じ思いをしている人へ
- その悔しさは、正当なもの
- でも、その悔しさは燃料として使える
- 人を軽んじる環境に、居続ける必要はない
あの日の悔しさは、今も覚えています。消えたわけではありません。
でも、あの言葉に振り回されることは、もうなくなりました。
19年かかりましたが、そういう答えの出し方もあると思っています。もし今しんどい人がいたら——時間はかかるけれど、必ず整理できる日が来ますよ。


コメント